(5)待ち合わせ《9月―頭の痛い季節》 ~2003年9月の記録 ∬第5話 待ち合わせ 火曜日の朝、電話が鳴った。受話器をとると「ギュナイドゥン(おはよう)」という友人の声が聞こえた。 ほら、やっぱり彼女だ。 口約束程度なら簡単に反故にするトルコ人が多いのに、彼女はちゃんと約束を覚えていて、都合が良いときも悪いときも必ず電話を入れてくれるので、つい感心してしまうのだ。 「都合はどう?」 「ええ、大丈夫よ。ただ、銀行でお金を下ろしたいので、その後でもいいかしら?」 新学期が始まって、なにかと物入りになっている私は、前日夫に送金してもらったお金を早速引き落としに行く予定があった。 「銀行はどこ?」 「カレカプスよ」 「じゃあ、カレカプスで待ち合わせしましょうよ。」 待ち合わせの時間に5分を残してちょうど用事が終わり、銀行を出ると、向かいにあるカフカス(ブルサが本店の栗製品の店)のショップが目に入った。 普段前を通り過ぎるだけなのに、秋の気配が漂い始めたせいか、急に思い立ってマロングラッセを買いたくなった。 先日、彼女と一緒に歩いた時、彼女がお腹が空いたと、かばんに忍ばせていたお菓子を取り出してペロリと平らげてしまったのを思い出し、彼女のために一つ二つ用意しておこうと思いついたのだ。 ところが、残念ながらマロングラッセは箱詰めのみで、バラ売りはしていなかった。 バラ売りしてくれるのは、実に甘そうなチョコレート菓子ばかり。 そんな中で、チョコレート・ボートに栗のペーストがたっぷり詰めてある、チョコレートの量が最も少なそうな一品を選び、彼女と自分とに一つずつ買い求めた。 待ち合わせ場所にしたサート・クレスィ(時計塔)に彼女はすでに来ていて、私の方ににこやかに手を振った。 歩きながらおしゃべりがはじまると、話題はすぐに例の音楽教室のことになった。 「ところで先週の土曜日、レッスンに行ったの?」 「行ったんだけどね。10分経っても15分経っても始まらないから、部屋まで先生を見に行ったらお茶を飲んでてね、昨日帰ってきたばかりで疲れているし、生徒がもう一人来るまで待ちましょう、なんて言うのよ。 私たち11時には予定があったから、遅くなるわけにはいかないって言って始めてもらったけど、頭に来ちゃった」 そうそう、そんないい加減なところもあったっけ。 いつぞやも娘ひとりしか生徒が来なかった時、レッスンは60分のはずなのに40分で終わりにされたことがあって、問いただすと、本来このレッスンは45分間なんです。いつもは大抵長引くので1時間くらいになるんですが、本来45分間ですから。なんて出まかせを言われたこともあったっけ。 しかし、それに続いて、彼女は聞き捨てならぬことを私に教えてくれた。 「彼女(教師)がなんて言ったと思う? あなたは私を不愉快にさせる。レッスン中に携帯が鳴るのは一番嫌いだし、レッスンを横で見ていられるのも不愉快ですって」 寝耳に水の話だった。 携帯電話を切っておくのは当然のマナーだが、そのことではない。レッスンは重要だからお母さん方も見るように。そう勧めたのは当の教師だったのだから。 「それに・・・あなたの名前まで引き合いに出したのよ。誰々(私の名)も不愉快だ、って。いつも後ろでレッスンを見ていて、って」 私は耳を疑った。「邪魔になるようなら外にいますが、居てもいいんでしょうか?」としばしば心配して確かめるほど、気を遣って物音ひとつ立てないようにしていたつもりだったし、その度に「居なさい、居なさい」と横で見ているように指示したのも、当の教師だったのだから。 「うちが急に辞めることにしたから、怒ったんじゃない?」 私は、その教師の生来の鼻の高い横顔を思い出していた。 もう2度と顔を合わすこともないんだし、まあいいか。 正直言って、その先生にもレッスンにも今更なんの未練もなかった。 「ところで、あなたに甘いもの買ったのよ。あとで食べましょうね」 「まあ、ありがとう。じゃあ、あとでカフェでお茶でもしましょう」 それから音楽教室まで、さらにカフェまで、最後にドルムシュの乗り場まで、延々と歩き通すことになるとは、その時はまだ予想もしていなかった。 連日のように外出が続き、疲れの溜まっている私には、その日は辛い一日となった。 つづく ∬第6話 学校巡り |